坐禅し続けて身体が消えた雲水ーしかし。。。


以下は、川上雪担老師の『雲水日記』
 http://www17.plala.or.jp/tozanji/unsui.html
からの抜粋です

長井自然老師の自分の身体がある、自分の心がある というのは思考・考えの作り事に過ぎない
を読む・動画で学ぶ

身体が消えるというのは、本来、自分の身体が無いことに気づくということです。


馴染みのない方々に、登場人物の紹介を先にしておきます。

<<舞台>> 福井県小浜市の鬼僧堂・発心寺専門僧堂 (曹洞宗)
<<時代>> 昭和40年ころ

<<登場人物>>
・堂頭老師(どうちょうろうし) 当時の発心寺専門僧堂の堂頭老師(兼住職)の原田雪水老師のこと 以下の日記中では雲水に信用がないようである 前の発心寺住職・発心寺専門僧堂開単者・原田祖岳老師の跡継ぎである
前・佛国寺住職の原田湛玄老師(1924-2018.3)も祖岳老師の法嗣 
祖岳老師の法嗣の安谷白雲老師は曹洞宗から離れて三宝教団(さんぽうきょうだん)を設立 
祖岳老師の法嗣には、他に石黒法龍老師などもいるが、見性機を発明して、その器械に人を乗せれば即座に見性できるとした 当然破門された

d9dbf3b3307e8017f3ac90f2d304f82d_s雪担さん 川上雪担老師 この『雲水日記』の作者 東大出の元数学教師で出家して、発心寺専門僧堂に掛搭 原田雪水老師の弟子となり、雪水の「雪」をもらって雪担と安名 しかしすぐに浜松の玉ねぎ僧堂こと龍泉寺の井上義衍ぎえん老師に参禅するため発心寺を抜け出る 
のち新潟に住職・川上雪担老師


・大心さん 斎藤大心和尚 東北出身 この和尚は、義衍老師のところで修行した雪溪和尚が発心寺専門僧堂の維那和尚(雲水のリーダー)になっていると聞き、僧堂の老師(堂頭どうちょう老師)ではなくて、この雪溪和尚に会いたさに発心寺に掛搭 以前も発心寺に掛搭していたことがある のちに福井県に住む(多分現在も)
坐禅中に身体が消えた雲水とは、この大心和尚のこと 大柄だった模様


・玄鳳さん 玄鳳和尚 すでに浜松井上義衍老師に昭和26年頃、雪溪和尚と同参  のちの某寺の住職

・量基さん 量基和尚 のちに発心寺を抜け出して浜松の玉ねぎ僧堂こと龍泉寺の井上義衍老師に参禅 のち某寺住職 この人も体格の良い人だった模様

・量道さん 量道和尚 のちに発心寺を抜け出して浜松の玉ねぎ僧堂こと龍泉寺の井上義衍老師に参禅 のち某寺住職

以下は、川上雪担老師の『雲水日記3』に読みやすいよう注釈を [ ]入れました


発心寺専門僧堂では、
坐禅40分⇒経行(きんひん)10分⇒抽解(ちゅうかい)10分⇒坐禅40分⇒経行(きんひん)10分⇒抽解(ちゅうかい)10分⇒坐禅40分⇒経行(きんひん)10分⇒抽解(ちゅうかい)10分⇒坐禅40分 …
のように繰り返します

ただし、発心僧堂開単者の原田祖岳老師(この日記の時代の堂頭どうちょう老師の原田雪水老師の先代)は、臨済宗でも修行した人なので、当時は、臨済の規矩(きく)が取り入れられていたため、坐禅の時間配分なども上記のようではなかったもしれません

ちなみに、臨済宗では、
坐禅25分⇒一斉に経行(きんひん)はせず5分くらい単上で抽解(原則東司(とうす=便所)にも行かない)⇒坐禅25分⇒抽解10分⇒坐禅25分⇒一斉に経行(きんひん)はせず5分くらい単上で抽解(原則東司(とうす=便所)にも行かない)⇒坐禅25分⇒抽解10分⇒坐禅25分⇒一斉に経行(きんひん)はせず5分くらい単上で抽解(原則東司(とうす=便所)にも行かない)⇒坐禅25分…
となるので、60分の間、坐禅をし続けることができるし、一炷にまたがれば、もっとそのまま坐禅を続けられます
なぜなら、臨済宗では一斉に経行(きんひん)することがほぼないためです

以下の雪担老師の『雲水日記』では、抽解ちゅうかいが柱開ちゅうかいと書かれています

トイレ行かずに続けて坐禅していたら、梵鐘がなって身体が消えた雲水ー斎藤大心和尚

斎藤大心和尚の出自

 大心和尚、東北は岩手の産、両親が相次いでなくなって、子供三人それぞれに引き取られて行った。
「心配すんな、高校ぐれえは出してやる。」
 というのを、答案を白紙で出して近くのお寺へ行った、頭を剃って貰った、どうしても死んだ両親に会いたいという、その思いであったと。

 奥の正法寺と云われる正法寺しょうぼうじ・細川石屋老師の弟子になる。師は禅師の位を抛(なげう)ったという剛直、
※禅師の位 曹洞宗で一番出世した位 つまり、永平寺貫主か総持寺貫主になるともらえる法階 資格を満たした立候補者から選挙によって選ばれる 

[ 細川石屋老師は ]「おまえのような者をこそ待っておった。」

 と云った。坊や坊やと可愛がられた、またそれによく答えた、嗣法は血書し、遙拝また一千拝、如法に行なうあとに、ひまをくれと云った。
 どうしても求めたいことがある、行脚に出るという、
「ばかったれ。」
 あんなに怒った師を見たことはなかった、三日も室を出ずという。

[それから、大心和尚福井小浜の発心寺専門僧堂に掛搭する]


発心寺専門僧堂の様子

「上げ膳据え膳ででん坐ってられるとは、ありがてえ。」
 と云って、のっこり大坊主が出て来た。大心和尚という、かまわないからとっつかまえて、風呂焚きやらせた。くせの悪い五右衛門風呂で、底板こじあけて、漆桶底ぶち抜いちまったことがある、あの時は困った。

 大心和尚魔術のように焚き沸かす。
 拭き掃除掃き掃除、風の吹き抜けるような、あとをつや光る。


 雲水生活十何年、
「恥んずかしいったらさ。」
 と東北出身、喧嘩ばっかりの化物僧堂がぴったり納まる。


「なんで発心寺へ来た。」
 と聞いたら、
「わし堂頭さん [僧堂の老師である原田雪水老師] に用事があって来たんじゃねえ、維那いのう和尚 (蜂須賀雪溪和尚) とこ来たんさ。」
 と云った。
 ふうん変なやつだ、酒には目がないらしい、
「おれおごる。」
 と云って引っ張って行った。おごられたら必ず返す、飲むほどに酔うほどに、
「そりゃおおかたやってるやつはいるけどさ、あんなにぴったりやったな珍しいんだぜ。」


 雪溪和尚はさあという、
「そりゃ微妙な差たって、ころっとやられるっきりよ、どうもならん。」
 へえなんのこっちゃ、


「無字の公案ていうのどう思う。」

「うっはっは特攻隊じゃあるめえし、とっかん突っ込めたって、人間そうは行かねえもなそうは行かねえ。」

 そのとおり、
「じゃ他に方法あるんか。」


発心寺専門僧堂は、「見性」を安売りしていた?  無字を拈提することが修行

「方法っておまえ道元禅師のむかしから只管打坐に決まってるじゃねえか。」

 幼稚園ていうやつか、ばか云え、
「もとこのとおりなんだ、どっこも悪いとこねえってより、いいもわるいもそれっこっきりそのもの、直指人身ていうだろうがさ、坐ったら坐るこっきりの他ねえの。」


「じゃなんでうまく行かねえんだ。」
「自分で必死こいてうまく行かねえやってるからさ。」

 まあそういうこったなってわけが。
「そりゃ人一箇同じだって、発心寺の欠陥は早く許し過ぎるってとこにある。」
※早く許し過ぎる とは、見性ではないものを見性だと認めてしまう

雪担和尚にちょっとした体験起こる

坐禅中の雲水たち2 ともあれ施設する。じきに制中、僧堂に帰った、蒲団を引っ張り出して、寝入ったとたんぱあーっと開ける[ちょっとした体験があった]。
[雪担和尚]「おう。」
 と云うと、大心和尚、
「おう。」
 と答える。初体験の全体開けるふうが、
「明日を待って雪溪老漢に挙(こ)せ。」
[通常は、僧堂の老師である原田雪水老師に独参すべきものをこの二人は蜂須賀雪溪和尚を信頼しているのでこう云っている]
 という、開けは開けたが、どこかに、
(これではない。)
 という。それにどういうわけか、雪溪老師には云い出でにくい。

 三日めに塞がる。
「一つ開けてまた閉じたな。」
 と大心兄。


当時の浜松の玉ねぎ僧堂・龍泉寺の井上義衍老師の下には、雲水が集っていた この日記の登場人物も続々と浜松・義衍老師のお寺に行くことになる

 ともあれあいつ[大心和尚]は隠しごとをしている、どうあったって聞き出そうとて、再三飲みにつれて行く、進退のさっぱりしている男で、一生の付き合いに、結局こっちが面倒を見られる始末が、
「そうなんだ、諸龍像が泣いたぜ、禅師の弟子や沢木さんの子飼いや、岸田維安の弟子とか、錚々たる連中がさ、出家の和尚だぜ、[浜松の龍泉寺・井上義衍老師のところに]全国から馳せ参じて。」
 とうとう白状する、

「それがさ、せっかく只管の消息を手に入れて[ 師匠の寺に ]帰ってみりゃ破門だ、[井上義衍老師というのは]どこの馬の骨とも知れぬってな。」
「肉食妻帯もしている、小寺のじっさでなあ、[師匠が言うには]『[お前は]狐狸[こり=義衍老師を指している]にたらかされおって』って、それでおしまいだ。」



浜松・井上義衍老師の龍泉寺は玉ねぎ一個を分け合う玉葱僧堂

 涙と共に語る、

「たといどうあろうと、滴滴相続底[嫡嫡てきてき相続底]よ、戦後のあのもののねえとき、伝え聞いてやって来て、いつんまに僧堂になった、托鉢して歩いたって、そりゃ知れてらな、道端に玉葱落っこってた、それ拾って来て真ん中に置いて、みんなでむしって食った。」
[当時の龍泉寺では、玉ねぎ一個を修行者みんなで分けて食べたという]

 玉葱僧堂だと、  理想社会だ、只管打坐がどうのより、そっちのほうがぴんと来た。
[雪担和尚]「[それは]どこだ、教えろ行く。」

 大心和尚我に返った、

「いや、いまにな。」
 それっきりどう押しても出て来ない、なんせ堂頭[原田雪水老師]さんの弟子[雪担和尚]たらかしたとあっては、それは。   
 

 のれんに腕押しをわしは食い下がった。

 制中になった、大心和尚を慕って、これも上背のある大坊主、量基和尚が安居して来た。雪溪老師は講師になり、永平寺から帰って来た、玄鳳さんという人が維那になった、玄鳳維那一睨みで大衆を黙らせる。
[ この玄鳳和尚も井上義衍老師にすでに参禅して、発心禅堂に来た]

 [発心寺が]僧堂らしくなった、
「こんなんなら一生いてもいいぜ。」
 脳天気に思ったり。草むしりも薪作務も楽しかった。


 玄鳳和尚小浜の顔で、とんでもないご馳走食わせに連れて行ったりする。すっかり仲良くなった。
 一に柴を運び、二に石を担いする、他なしにといって、切れない鋸に薪を伐き、セメント袋担いでひっくり返ったりも思い出す。

 四月の摂心には、願い出て無字を返上、こっちは只管打坐のつもり。

「雪担さん、もっと効果のあるものをやりなさい。」

 二日めには単頭和尚がせっつく。一度二度独参をさぼっていると、「行かないのなら、私にも考えがあります。」
 という、すわ殺されるとばかり、喚鐘に取っ付くと、ふっと抜け出る、
「なあるほどこういうのもあるか。」
 と思うとからに、元の木阿弥。

一生を不離叢林の良寛坊万分の一なるこは修行とふ

釈尊は一所不定の八十年その足跡の石の辺に乗れ

「もういい玉葱僧堂[井上義衍老師の浜松龍泉寺]へ行く。」

 無字をやらされて、大心和尚にせっつくと、

「そうか、じゃ雪溪老漢に聞いて来る。」

 という、雪溪老漢の返事は、
「ここでもやれます。」
 というのだった。


坐禅して身体が消えたって云っても、見性ではない

 昼休み裏の墓場で、大心和尚と量基和尚が話す、
「たしかにわしもあったです、ものみな失せてどっとこう。」
「ふむそれで。」
「老師はそうやって見い見いしてけばって云う。」
「ほんとうに行くってどういうことかな。」
 と云う。
 わしはと大心和尚、かつて発心寺にいた、
「柱開[抽解ちゅうかいの間違い]の間坐っておった、そうしたら大梵鐘が鳴る、どわっと体ふっ消えちまった、手も足もねえって立とうたって立てねえ、それ持って独参に行ったら、堂頭さん(原田雪水老師)魂消(たまげ)て、大見性だ大見性だ云う。」

「ふうん。」

「だからってそれ、雪溪和尚に挙したら、『あなたはそういうこと云ってるから駄目なんですよ』って云われた。」 [ 流石に井上義衍老師のところで修行した人です ]


以上を原文で読む

自分の身体がある、自分の心がある というのは思考・考えの作り事に過ぎない
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