嫌な上司のせいで自宅で10時間座禅できるようになったアルバイト青年


 正師に出会いながら、15年のうち、14年間、間違った坐禅をしていた人 という記事を読む




なんで上司はそんなことをするんだろう

工場でアルバイトをする青年がいました。
井上貫道老師などの坐禅会には参加しており、提唱も聞いていました。

自宅でも坐禅をしていました。

工場で流れ作業をするのは頭を使わなくて良いからということで、その仕事をしていましたが、彼には職場に一つどうしても気になることがありました。



定期的に上司が現場に点検に来るのですが、社員さんたちへ言葉を交わし、製品を点検したあと、その製品を必ずその辺にほったらかして戻って行くのです。

青年は、その態度が気に入りませんでした。いやな上司でした。


彼は、何人かの老師の提唱を聞いていましたが、貫道老師が、
「人に嫌な奴なんてついていませんよ。

それはあなたがそう思っているだけで、よく見てください。

その人は嫌な上司ではありませんから 

嫌な上司って、それ、あなたの思いでしょう? 

見えている事実は、誰の様子ですか? 

その散らかったというのですから、散らかったとしましょう、
その製品に、上司が置いたとかついていますか?

それは、誰の様子でしょうか?


他の人の目で見ているのではないですよ。あなた目で見ているのでしょう?

あなたの様子でしょう?」



そんなことを言われても、それは上司の意志でそうしているのであって、わたしの見方に過ぎないと言われても納得できません。


それからも、上司は、点検に来ると必ず、大事な製品なのにその場に散らかして帰るのでした。

製品をなんでその場に散らかすのだろうか、ちゃんと元に戻せよ といつも心の中で思っていました。彼にとっては許せない上司です。



ふと転機が訪れる

ある日のことです。その上司がやって来て、ふとその現場を見たとき、少しも「散らかっている」風ではなかったのです。

「その通りそれがそこにあった」のです。
それは理屈で納得するのではなくて、本当にそうだったのです。


それ以降、青年は、上司が来ても全く気にならなくなりました。

こういう体験は思わぬ時に来るものです。
予想していると、期待していると、やって来ません。



気づいたら一日10時間も一人で坐禅していた……

salariedmanwitheyesopenduringzazen._FotoSketcherそれからです。
坐禅も変わってしまいました。

坐ることが楽しいのです。


仕事のない日には、自宅で坐禅を組んでいて、気がついたら10時間坐っていたということがよくあるようになってしまいました。

もちろん、一炷(いっちゅう)10時間ということではなくて、途中で脚は組み換えているでしょう。



専門僧堂で10年15年修行した僧侶だって、寺に帰れば、一日10時間坐禅するのは到底ムリです。
友引の日でお休みでも、そのような実力はありません。

まだ修行が終わっていないのに、「寺も外に向かって活動することが大切だから」とか云って、もう坐禅はやりません。


どうしても、「俺は10年間修行した」ということから抜け出せません。
仏道修行は経歴ではないのに。


昔の中国唐代になりますが、猟師で名人と言われていた石鞏(しゃっきょう)は、馬祖大師に会って、問答を交わしただけで大悟しました。

『証道歌』を書いた人は、六祖大師に会って、その場で悟り、一日で印可証明を得ています。
大師に薦められて、一泊をしたので、「一宿覚(いっしゅくかく:一晩で悟りを開いた人)」と呼ばれた永嘉玄覚(665?~713)和尚のことです。


このアルバイト青年のように、
だれも見ていないところで、しかも10時間坐禅することは道場の古参にはできません。

必ず何か理由をつけて、坐禅をしません。


本当の坐禅をしたことがないのです。

道場に居て、みんなと攝心するから一日中坐禅できただけです。
坐禅の格好が保てただけなのです。

そのような摂心なら、フルに7日間の摂心でも何十回でもできたのです。
それは、単に他の人よりほんのちょっと根性があって長年続けているというレベルです。

自坊 (じぼう:出身のお寺のこと) に帰らないといけない事情が発生しなかっただけです。

なので、長い間僧堂に居れたのです。



ですから、できるだけ早いうちに正師に出会えることは本当に幸運です。
正師に会えると、ホントにどこででも修行ができます。

上のアルバイト青年のようにグッと修行が進むのです。



10時間座れるようになった訳

アルバイト青年の場合、出家ではないですから、もちろん僧堂に安居したことなどありません。
接心(せっしん)にもたしか一日だけとかで、満足に参加していないそうです。

他の厳しい修行をしたわけでもないです。


なのに、あの体験以来、一日中自宅で、だれが見ていなくても10時間坐禅ができるのです。


ひょんなことから「事実」が手に入ると大きな変化を遂げるのです。
修行は、あらたに何かを身につけることではない と言われている通りです。


日頃、正師の提唱を聞いてわずかでも坐禅していないとそれも手に入らなかったと思われます。



坐禅が坐禅になる時節 だから10時間坐禅ができる


ちょうど、井上義衍老師もお話をされていますので、引用させていただきます。

新刊の 『問答 井上義衍 悟りの真相』 からです。


「自己の真相を知るのには、そういう物心付いたという観念的な立場に居る者を、その観念的な取扱いをするものから、一遍(いっぺん)離れなければいけませんよと云うことがある。

そして離れるのにはどうしたらよいかと言うたら、只もの自体がこう必然にあるんでしよう。どうせんでも兎に角凡てこう在るんでしょう。


それじやから在るものが在るがまんまにというと、
在るがまんまにと云う態度を作るからいかんのです。


そうじやない、本当に在るがまんまだから、ピシャーンと叩かれたら 只 そうじやったんです。
「馬鹿野郎」と言われたら 只そうじやったんです。

凡ゆる面で皆 只そうじやったんです。

どうのこうのじやないのです。

そこ迄死ねばいいんです。
そうすると、考え方じやない自分の活動体にこうなる。

そうすると、ボツボツその辺から本当にこう入る。

そこらへゆくと本当の修行の態度になる。

それ以前は、ナァーに、坐禅すると云うたつて、皆すったもんだ云うて、どうあるべきか、良いの悪いの言うて騒動しておるだけです。

― 『問答 井上義衍 悟りの真相』 第四章 問34から


この青年のような体験を持つ人は、在家の人でも割合たくさんいらっしゃいます。
自室でちょっと坐禅するつもりが、気づいたら、何時間も経過していた…よくある話です。

みなさん、別に人に言わないだけです。
在家の人の坐禅、馬鹿になりません。
ちゃんとした正師(しょうし)の法を聴いているからそうなります。

お釈迦様の時代から、説法中に悟る人がたくさんいました。
法を聴くことがいかに大切かということです。


今の時代、めぐまれた出家より、
在家の人にすごい人が多いような気がします。


この青年の話はたまたま知っていたのです。




この青年と同じような体験があった参禅者が質問しました

【問】そのように坐禅ができるようになったら、なんていうんですか、修行がもう後退することはないのですか?

【答】井上老師:いや、油断したら後退しますよ。
坐禅時間の長短の問題ではなくて、修行を怠ければ(やらなければ)後退します。

なので、決着がつくまでは修行を急がないといけないのです。


 正師に出会いながら、15年のうち、14年間、間違った坐禅をしていた人 という記事を読む