全くの初心者が、坐禅3日目で気づく―井上義衍老師語録より

この間もある方が参禅にこられた。初めて坐禅にきた方です。

初めて坐禅にきて、坐禅して三日目ですか、小綬鶏(コジュケイ)の声を開いて、そのコジュケイの声によって「あら、今までの私と、丸っきり違った自分があるじゃないか、どうしたんだろう」。
そういうようなことを感じた者がいる。
そのぐらい純粋なものです。
kotoriontree
(写真はコジュケイではありません)

それをみんな、あまり真剣になり過ぎて、修行じゃ修行じゃと考え過ぎるものじゃから、それで余計うまくゆかんのです、それじゃからとて[修行を]放棄することじゃないですよ。


ですから、とにかく自分自身のどんな立派なことがあつても、そういうようなものを一切頼りにすることを、ただ本当にやめる。
そして機能任せにしてご覧なさい。

そうすると必ず、徹せんということはあり得ない。

なぜ徹せんということがあり得ないかといえば「オイ」(老師大声一番)といえばですね、必ずそういうふうにみなが、どういうわけかこういうわけか、これ(老師身体を指して)が、 コロツとそうならざるを得ないんでしょう。

    井上義衍老師『夢想(六)』 p.77


わたしですか。わたしは坐禅中に本当に何もしませんよ。
―井上貫道老師


[ 坐禅をする人に比べて ] 悟る人が少ないのは、坐禅中に余計なことをしている人がそれだけ多いからです。
松本自證老師2019/07



坐禅は状態を作ることではないんです。

ここに10数人いらっしゃいますが、もし、坐禅が境地なら、ここに居る全員がバラバラのことをしていることになりますよ。

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