長井自然老師の参禅の師である原田雪溪老師(前・発心寺僧堂師家)のことば



「私たちには、生涯をかけてめぐり会わなくてはいけないたった一人の人がいます。

どんなに草の根を分け、山をよじ登ってでもその人に会わなければなりません。

それは誰かといいますと、本来の自己、私の自分です。
自分自身に会っていただかねばなりません。

この人に会わない限り、本当に心から満足をする、もの足りなさを無くす、あるいは物事を明確にするということは不可能であります。

人生の目的といわれるのも、この私の自分自身に会うこと。仏教の教えもそこに目標が定まっているわけです。そのいちばん具体的な近道が、『禅』ということです。」―原田雪溪


-------------------------------------------------------

原田雪溪老師(1926-2020) 昭和1年12月31日生 蜂須賀姓 愛知県岡崎市出身 明治大学卒 海軍主計官、刑務官を経て、出家200wSekkeiHarada
大阪高槻の少林窟道場で自分で剃髪した(普通は師匠に得度式してもらうまで髪の毛を残しておくもの)のち、小浜の発心寺専門僧堂の住職・原田雪水老師の弟子となる
原田雪水老師は、原田祖岳老師の後継者
しかし、発心寺専門僧堂で修行時代に、浜松の井上義衍(いのうえぎえん)老師の名声を聞き、
いてもたっても居られなくなり、昭和26年(1951年※)道場を出奔して(通常の人はやらないやれない行為*)、井上義衍老師のお寺・龍泉寺に走って修行をした人

※ルメ大岳和尚編纂の『The・禅 ダルマは世界を駆ける』の巻末の略歴では浜松に行かれたのが1953年(昭和28年)となっているが、龍泉寺発行の井上義衍老師の書籍によればそれは昭和26年となっている おそらく後者が正確であると思われる
ちなみに臨済宗東福寺の林恵鏡老師に師事して修行を終えて師家分上となっていた森敬宗老師(のちの青野敬宗老師)が井上義衍老師に参じ始めたのが昭和27年である



当時の龍泉寺(現在は浜松市東区半田山)は、専門僧堂ではなく、貧乏寺であった。
(住職資格の取れる専門僧堂ならば、檀家や信者が居て供養があるので、食に困るということはない)

そこの住職である井上義衍老師が本当に悟りの眼の明らかな人であるという噂を聞いて、日本中の至るところから、修行僧や心ある在家の参禅者が集まっていた 

食べるものさえなく、ある時は玉ねぎ一個を何十人で分け合うような食事だった なので、修行僧の間では、「玉ねぎ僧堂」と呼ばれていた
あるいは、住職の義衍老師を訪問した人が、お昼になって出されたのは、水一杯ということもあったという しかもその水にはボウフラが湧いていたがそれを取り除いて供された


それでも誰一人不満を言うこともなく、明日の心配をすることもなく修行に打ち込んだという
雲水たちはお寺の経済に迷惑をかけないように自分たちの食い扶持は各々托鉢をしていた


雪溪師は、修行中は商店街を通っても一度も商店に眼をやったことがない(見たことがない 視線を地面に落としているから商店街は見えない)ほど修行に専心されたと本人から直接うかがった

臨済宗で印可証明(いんかしょうめい=悟って修行が終わりましたよという証明 本山が出すのではなくて個人の和尚が出すもの 本山というのはただの事務統括本社のようなもの)を受けたものの自分は悟っていないと気づき、義衍老師のところにやって来て、修行をしていた森敬宗老師(のち青野に改姓)という優れた先輩にも恵まれたこともあり、井上義衍老師の指導の下、わずか数年で見性(けんしょう=悟り)をされている 義衍老師から、見性を証するの書を得られている
青野敬宗老師にも見性を証するの書を出されているが二人共同一の文言が書かれている これは文書的には印可証明とはなっていない
のち、井上義衍老師が山王タキノ女史や井上貫道老師に書かれたものは印可証明とタイトルがついている
 
※印可証明と見性(けんしょう)の証明の2通りの証明書があることについて、2020年10月に管理人が井上貫道老師に尋ねました。
「義衍老師は、印可証明をある人たちには与え、雪溪老師や青野敬宗老師には、見性の証明となっていますが、それは使い分けられているのですか? 何か違いがあるのでしょうか?」
老師「いや、違いはないでしょう」
とのことでした。


敬宗=けいじゅう

--------------

*井上義衍老師のお寺・龍泉寺(浜松市東区)は本山の認めた専門僧堂ではないので、そのようなところで修行しても、住職資格獲得上の何の足しにもならない そのことが分かればそもそも雲水の師匠が反対する

井上義衍老師のところに全国から馳せ参じた雲水は、多くの場合師匠には内緒で、周りには「静岡に独摂心(一人でどこかに籠もって自分ひとりで坐禅三昧の修行をすること)に行く」という理由にしていたようである 師匠に連れ戻されないようにするためである

蜂須賀雪溪師は、発心寺専門僧堂の老師の弟子であった(正式には発心寺の住職の原田雪水老師の弟子)が、通常は、専門僧堂に行く前に、どこかでご縁のある和尚の弟子となってから、小僧となって基礎教育を受け(掃除や僧侶としての基本作法などを学ぶ)、一定期間ののち、いよいよ専門僧堂に掛搭するが、雪溪師は例外的に僧堂の弟子となっていたのである

専門僧堂の弟子となっておきながら、そこを飛び出して海のものとも山のものとも分からない田舎の和尚のところに修行に行くなんて噴飯ものだったであろう しかも当時は発心寺専門僧堂と言えば、曹洞宗では本格的な修行をしたい熱心な雲水の集まるナンバーワン道場として知られていたのだから
-------------- 

蜂須賀雪溪師は、井上義衍老師の下を去ったのち、いくつかの寺院を経て、昭和49年に福井県小浜市の發心寺の住職となり、原田に改姓 hosshinji2年後發心寺専門僧堂の師家・堂頭老師(どうちょうろうし)となる

発心寺は曹洞宗の専門僧堂の中では、悟りを標榜する珍しい道場であったので、外国人の修行僧・修行者も大変多く集まり、原田雪溪老師は、一時曹洞宗で最も弟子の多い和尚と言われた


発心寺の摂心會せっしんえ (7日間の大摂心が年に8回ほど実施されていた)には、日本人の在家の求道者も多く参加し、大叢林の観を呈した (逆に発心寺の修行僧がその応対で大変だった様である)
原田老師は、大本山総持寺西堂 (そうじじせいどう)にもなられた
専門僧堂内だけでなく、神戸、東京、埼玉、千葉、静岡、ドイツ、米国、インド、フランスなどでも坐禅を指導
田雪溪老師の著書は英文に翻訳されているのもある The Essence of Zen など  和文は、『The・禅 ダルマは世界を駆ける』、大法輪『ヨーロッパの道友に語る証道歌』など多数 特に、『The・禅 ダルマは世界を駆ける』は、攝心の提唱の文字化であるが不朽の名著とされる

近年發心寺にて療養中であったが、2020年6月22日遷化(せんげ) 世壽95


雪溪老師は、後継ぎを發心寺に残されていない(発心寺僧堂は閉単されました 閉単=道場を閉じること)


[ 以下は全くの余談です 信憑性がないと反発する方もいらっしゃるでしょう ]
原田雪溪老師はある人(東日本の寺院の和尚)に印可証明を出されているが、その和尚はすでに遷化されています。

このことに関して、老師に近い方々は「雪溪老師は誰にも印可証明を出していない」と主張しています。雪溪老師の会下には在錫(ざいしゃく)40年、30年の雲水はたくさん居た。しかし、誰にも印可証明を出していないんだと。

しかしながら、印可証明などの法に関することは、で出家であろうが在家であろうが古参で40年間参禅しているからと言って、あるいは身の回りのお世話をするなどの親しい人間関係ができているからと言って、その人々に「誰々に印可を出した」などと告げるかというと、多分言わないと思われます。

法に関することはそれらの人々に関係がないからです。(修行を長いことしていることと修行成就をすることとはまったくの無関係です)

また、逆に、印可証明をもらっていないのに、もらったかのように自分で誤解している、またはもらったかのように振る舞う人・公言している人がいることも事実です。


ついでに言えば、雪溪老師は、会下の何人かの人に、「自分のあと(発心僧堂の後継ぎ)を嗣いで欲しいということを言われているが、それは言われた人が修行が出来上がったという意味ではなくて、ある程度素質のある人、または、修行の進んだ人に向かって希望を言われただけであって、それ以上の意味ではない(その人を印可したという意味ではない)と思われます。

(世間でもこういうことはよくあると思われます。またそういう発言はしない人もいます
どちらが良いとか悪いとかではないです)


雪溪老師は、前言を翻すことの多い人であったようです。
たとえば、発心僧堂には女性の修行者(尼僧)を置いていました。この点では、道場に女性を置くことに反対していた青野敬宗老師(發心寺後堂老師)と意見が対立していたようです。
原田雪溪老師と青野敬宗老師は龍泉寺の井上義衍老師の同参です(同参どうさん=同じ師に参禅した同期の修行者
)
(悟っている人同士であっても、これらは見解(考え方)なので二人の見解が一致するとは限らないです)

ある事で、雪溪老師は女性をもう道場に置かないと決められたことがあったのですが、それを大衆に宣言して3日後、ちょうど尼僧の掛搭があったのに、受け入れてしまったということがあったらしいです。
いわゆる朝令暮改をするタイプ(これは批判ではなく、世の会社の社長でも方針を絶対変えないタイプと朝令暮改タイプとがあるように、悟った老師にもあるということが云いたいだけです)


※最新情報=發心寺僧堂は本山が閉単を決定した 以後は寺院として存続 2020年記

井上義衍老師については、こちらをご覧ください

The Essence of Zen の英文による雪溪老師の紹介文と書籍の内容:

Sekkei Harada is the abbot of Hosshinji, a Soto Zen training monastery and temple, in Fukui Prefecture, near the coast of central Japan. He was born in 1926 in Okazaki, near Nagoya, and was ordained at Hosshinji in 1951. In 1953, he went to Hamamatsu to practice under Zen Master Gien Inoue, and received inkashomei (certification of realization) in 1957. In 1974, he was installed as resident priest and abbot of Hosshinji and was formally recognized by the Soto Zen sect as a certified Zen master (shike) in 1976. Since 1982, Harada has traveled abroad frequently, teaching in such countries as Germany, France, the United States, and India. He also leads zazen groups within Japan, in Tokyo and Saitama. From 2003-2005, he was Director of the Soto Zen Buddhism Europe Office located in Milan.
------------------------
The Essence of Zen is an expert's guided tour of the ins and outs of the tradition's approach to meditation, enlightenment, and the oneness of all things. To read it is to enter into one of modern Japanese Zen's most subtle and sophisticated minds.Sekkei Harada skillfully pushes us to drop those parts of ourselves that grasp and make demands regarding our understanding or progress in meditation practice. He enables us to see clearly-and steer clear of-the philosophical stumbling blocks that can make the path precarious.The Essence of Zen represents the most succinct of his teachings, making it of immediate value to anyone with an interest in Zen. The book also contains Harada's explanations of the differences between the tradition's primary schools, making it particularly helpful to newcomers.
-------------------------------------------------------
原田雪渓老師が師家であったある時期に小浜の發心寺専門僧堂に安居した、元会社経営者の修行僧の感想記↓↓
hosshinjitaikenki
これは、
https://ub331.crayonsite.info/p/3/ から引用させていただきました。



世界とコロナとワクチンの真実情報
禅の高僧や老師の言葉を読む
坐禅や瞑想の意外な秘訣