瞑想も坐禅も目を開きます

インドでは瞑想の時に目を開いていたのに、イギリス人が目を閉じるように変えた

瞑想で目を閉じるようになった理由は2つあります。

(1) 元々インドにあったヨガや瞑想を世界に普及したのは、イギリス人です。
インドはかつてイギリスの植民地でした。
インドに行ったイギリス人にとって瞑想=黙想は目を閉じるのが当たり前だったのです。
なぜならイギリス人カトリック教徒は目を閉じて黙想をするからです。
今でもカトリックでは目を閉じて黙想(meditation)をします。


(2) ヨーガを教えていて、目を開いて向かい合って瞑想を教えるとなると、自分の力量を生徒さんに見透かされてしまいます。
日頃、かなり真剣に瞑想をしていないと、目を開いて人前で瞑想などできません。

だから閉じるようになったのです。これが2番目の理由です。

 別の記事「坐禅は目を開くことが坐禅のやり方ー悟りを開いた会社員のことば」
を読む

ヨガの瞑想でも実は目を開いて瞑想するのが本当

ヨガ(ヨーガ)の瞑想では目を閉じると思われていますよね。

「坐禅は目を開くが、瞑想は目を閉じる」
これ、定着してしまった感があります。

ところが、瞑想は目を閉じるというのは嘘松、間違いなのです。

ちょっと、一言付け加えますと、最近、動画や写真で、坐禅している人の姿が多くアップされています。
それらを見ると、目を開いて坐禅している人が大変少ないです。
僧侶までもが、目を閉じています。
海外にある禅センターなどになると外人修行者のほとんどが目をつぶって坐禅をしています。

これ、指導者の責任です。

でも、日本でも、その動画では目をつぶっている住職が多いのです。
雲水に至ってはほぼ全滅で、目を開いておれないのです。

目を開いて坐禅することは知っているのですけれど、目を開けないほど、眠いのです。
でもそうしている限り、まったく修行にはなっていません。

厳しいようですが、当たり前です。目をつぶって打席に入るみたいなものです。
何打席打とうが、ボールにかすりもしません。


では、なぜ、僧侶が目をつぶっているか、それは、
このブログの別の記事、『瞑想中・座禅中に眠くなる人が大変多い(修行僧もベテランも)理由』
に詳しく書いていますので、そちらをご覧ください。



さて、瞑想は目をどうするかですね。

本当の瞑想家は、目を開いてしていました。
インドの本物の聖者は目を開いて瞑想していました。

例を挙げると、19世紀のヨガの聖者、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは目を開いていたということは有名な事実です。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、シュリー・ラーマクリシュナの高弟です。


ヴィヴェーカーナンダの本、たとえば、Raja Yoga by Swami Vivekananda を見れば、目を開いて瞑想している写真が多数掲載されています。


もう少し、あとの時代のインド(20世紀)のことになりますが、
イギリス人ポールブラントンがインドに行って、聖者たちを訪問した時の様子を書いた『秘められたインド―賢者たちとの出会いの記録』 (A Search In Secret India) という書籍があります。

これとても面白い本です。学生時代に夢中になりました。

その中に、瞑想の聖者たちが出てきます。

一人は、イスラムのスーフィーの瞑想家です。
スポンサーに建ててもらった小屋の中で、一日中瞑想に入っていますが、目を開いています。

What impresses me most is that throughout that time he never blinks his eyes. I have never before met any human being who could sit down and look steadily ahead for two hours without the flicker of an eyelid.
―"The Sage Who Never Speaks", A Search in Secret India, p.107

「一番印象的だったのは、その間ずっと、賢者がまばたきをしないことだ。
きちっと前を見て坐って、2時間もまばたきをしないでいられる人なんて今まで一度も会ったことがない」
―沈黙の賢者『秘められたインド―賢者たちとの出会いの記録』 日本語訳のページは不明



ブラントン氏がそれを写真に撮ったのですが、瞑想から出てきたその賢者は、
「ヨーギの瞑想をフラッシュをたいて写真を撮るのはいけないですよ」
「場合によっては、ヨーギに呪いをかけられてしまうこともあるよ」
とたしなめられています。

その賢者sage はイスラムです。
イスラムでも、瞑想が伝えられている派があるのです。
そこでは瞑想は目を開いています

RAMana
もうひとりは、有名な南インドのティルヴァンナーマライの聖者ラマナ・マハルシ(故人)です。

高校生の時に神秘体験をしたので、家から出て、寺院にこもって、のち、アルナーチャラという山にこもって瞑想を続けた聖者です。

今でも、ラマナ・マハルシを慕って、日本をはじめ全世界から人がアシュラムに来て、瞑想をしているといいます。
日本人にも長期滞在している人がいたそうです。


ラマナは、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ(自然無分別三昧)に入っていますが、目を開いています。

いろんな人に、聖者ラマナ・マハルシは目を開いてサマーディに入っていると描写されています。


目を閉じて瞑想するのは、キリスト教徒のイギリス人が始めたこと

キリスト教徒(カトリック)は黙想(meditation)と言って、神様のことを目を閉じて思います。

インドに入ったイギリス人(インドは以前はイギリスの植民地)たちが、キリスト教では目を閉じて黙想をするので、勘違いして、目を閉じる瞑想(meditation)、目を閉じるヨガを広めてしまいました。


批判しているのではないですが、今はヨガが職業的資格制度になっていて、目を閉じるほうがインストラクターにも色々都合が良いので、それが標準になってしまったというのが経緯です。670187


そうですよね。
あなたがヨーギ(ヨーギーニー)やヨガのインストラクターになったと想像して下さい。

yogiやインストラクターは生徒さんpupilsと向かい合わせになって瞑想します。
でも、生徒さん達が全員目を開いているのと目を閉じているのとでは、どちらがインストラクターは気楽でしょうか?

もちろん、生徒さん達に見られない「目を閉じた瞑想」ですよね。


もう少し突っ込んで嫌なことを云いますと、目を見るとその人が分かってしまいます。
その証拠に人間ウソをついているときには、他人(ひと)と目を合わせません。
目はたくさんのことを語るからです。


ヨーガを教えていて、目を開いて向かい合って瞑想を教えるとなると、先生の力量を生徒さんに見透かされてしまいます。
日頃、かなり真剣に瞑想をしていないと、目を開いて人前で瞑想などできません。

本当は、人前で瞑想しても坐禅しても簡単に平気に目を開けていられる方法があるのですが、ここには書きません(笑)


よって、中途半端なヨーギや自称聖者たち(インドにはうじゃうじゃ居ます)や
西洋人がヨガの普及をする時に、大衆化(商業化)をする時に、勝手に、目を閉じてやる瞑想を開始したのです。

今はヨガの資格ブームですが、どこも安易な目を閉じる瞑想を教えています。

目を閉じて瞑想する方が楽だからです。


でも、それでは、
パタンジャリの言うサマーディ(三昧)には入れません。

そもそも、三昧を狙ってヨガをやる人は、今の日本にはほぼいません。


またヒマラヤやインドに長期間居たからと言って、サマーディに入れているとは限りません。

これは禅の道場に長期間居ても、坐禅ができるとは限らない、悟っているとは限らないのと同じです。
⇒ 道場で10年修行しても、実は坐禅の本当の方法を知らない僧侶ほとんどです の記事をご覧ください。



ヨーガの最終段階ーサマーディ


今のヨガでは、パタンジャリのアシュターンガヨーガ(8ステップのヨガ)のうち、最後の3段階である ダーラナ―dharana、ディアーナdhyana、サマーディsamadhi が自分もできて教えているヨガインストラクターは皆無になりました。

アシュターンガヨーガも違う意味として使われてしまっています。
ヨーガの一種のように用いられています。

アシュターンガとは、アシュタ(8)+アンガ(肢)つまり八支則です。

アシュターンガは、
 「ヤーマ」「ニヤーマ」「アーサナ―」「プラーナーヤーマ」「プラティヤハーラ」の5つと
いよいよ6段階目からが本題なのです。
最後は、
「ダーラナー」 集中
「ディヤーナ」 瞑想
「サマーディ」 三昧
の3つです。

色々なアーサナ―(ヨガのポーズ)や呼吸法はこのための準備に過ぎません。
一生をそのためだけに使うと、勿体無いです。

このサマーディに入って、chitta vritti nirodha になるのがヨーガの本来の目的です。
ヨーガも「解脱kaivalya」を目的にしているのです。

ちなみに、パタンジャリのヨーガスートラには、目を開くとか閉じるとかは記載がありません。
でも、上記のように本格的なヨーギたち、瞑想家たちや、その弟子たちは、当然のように目を開いて瞑想をしていたのです。


ヨーガの実習書としては、インドで学校の校長先生をしながらヨーガを研究し、瞑想を実践していたアーネストウッド氏の Practical Yoga, Ancient and Modern がおすすめです。

  別の記事「坐禅は目を開くことが坐禅のやり方ー悟りを開いた会社員のことば」
を読む

でも、仏教は、8とか、段階を踏まないのです。
頓悟なのです。
sudden enlightenment 突然悟る
です。
身体の準備も要りません。チャクラを覚醒したり、クンダリニーを目覚ますこともやりません。


(悟りを開いてから、クンダリニーを目覚めさせた和尚さんがいます ちゃんとした本にも残されています(◯◯和尚全集として発行されています) 詳細はまたいつか記事にするかも知れません 
結論を言うと、70歳代なのに、3日間徹夜してもなんともない身体になったと書かれています クンダリニーは悟りとは関係がありませんということです)


人生短いですから。

悟りに4段階あるという仏教の説は誤り:預流果・一来果・不還果・阿羅漢果は謬説 を読む



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※松本自證老師は井上貫道老師の弟子


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