悟りは求めてはいけないのでしょうか?

祖師方は、求める心を捨てた時に悟りがおとずれるという意味のことをしばしば言われています。
求める心が止んだ人を「無事の人」とも云います。
ところがそれを誤解して途中で実質坐禅や修行を止めてしまう人が多く見られます。

ある日の禅会での質問より


参禅者「悟りたいって思ってしまうんですよね」

松本自證老師(以下老師)「なんで、それがいけないんですか?」

参禅者「……」


老師「悟りたいから修行をしているんでしょう?
ここ(代々木)に来られるのも、悟りたいからですよね。

道元禅師だってそうですよ。
だから、わざわざ中国にまで行かれた

[当時(13世紀)の日本では、出家をされた天台宗はもちろん、禅宗の建仁寺でも悟った人に出会えなかったので、道元禅師は、まだ航海の危険性が高かったのに中国に渡られた(栄西禅師の後継ぎの明全和尚と一緒に) 
そこで如浄禅師に出会って坐禅し、身心脱落された] 


悟りたいのはいけなくないですよ。

もちろん、坐禅中に『悟りたい・悟るぞ』ってやってたらそれはダメですけど
それは皆さん分かっているでしょう」
―松本自證老師

ただしく坐れているかを自分でチェックすること

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◯ 坐れているかの[本当の]チェックは、
カー、カーですよ。

自分が坐れているか坐禅中にチェックしないでくださいね。
坐禅は「知らない」んです。

「今自分はちゃんと坐れている」と坐禅中にチェックするのは、認識が「良し」とする範囲内です。
―松本自證老師

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◯ 悟る人が少ないように見えるのは、貫道老師のように正しい修行方法、正しい坐禅の仕方を教える人がいないからなのです。
悟るのが難しいからではありません。
―松本自證老師



数は大変少ないかもしれませんが、お釈迦様の大法を伝える正師(しょうし)は、現代の日本の社会に存在しています。
ハッキリと悟った方を正師と云います。
そのような方々は、2500年の時空を越えて、お釈迦様(ブッダ)に繫ります。

正師(しょうし)の提唱を聴き、正師(しょうし)に独参してくださいませ。