坐禅のやり方、坐禅の方法ー坐禅中は何をするのか

お釈迦様の時代から座禅は悟りのための唯一の手段です。
釈尊伝を読むと、リーダー釈尊はフォロワーであるお弟子たちに森の中で毎日坐禅をさせておられてます。
釈尊自身も覚者Buddhaとなっても坐禅をされていました。


インドから中国にと仏法が伝わり、そこから日本に正しい坐禅を伝えた道元禅師も、念仏や懺悔(さんげ であって、ざんげではないです)することやお経を読むこと(看経かんきん)より、修行は坐禅が一番だと言われています。

ただ坐って身心脱落せよと言われています。(『辧道話べんどうわ』)
実際、中国から帰国後の道元禅師は、京都でも北陸でも自然と集まって来たお弟子たちと一緒に坐禅に専念されています。
(北陸の今の永平寺に移住されたのは、比叡山(天台宗)の僧侶の暴徒たちの妨害があったからです 当時の仏教の最高権威である比叡山からしたら道元禅師のグループは勝手な仏教を広めようとしている異分子集団ということになるので攻撃する大義名分があります)


さらに、道元禅師は、非常に意味の深いことを言われています。
その一つは、
「初心の弁道はすなわち本証の全体なり」―『辧道話』
※辧道べんどう=弁道


初心者の坐禅が、覚者の坐禅と同じになりますよ、
坐禅は習熟するものではないですよ、
長年やっているベテランだから正しい坐禅が出来ているわけではないですよ
ということです。

坐禅中は何をするのですか?⇒坐禅に決まっているでしょう!

友人から聞いた話です。
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[ ここから友人の話 ]
当時住んでいる場所が坐禅しにくいところだったので、外でまとまった時間坐禅ができる場所を探していたら、すぐ近くにお寺がありました。坐禅の経験はあったのですが、そのお寺は初めてだし、坐禅が初めての方向けの説明会に参加しました。
坐禅堂もあるお寺でした。
外国の方も含めて数十人がいました。初回参加の人だけでそれだけの人数。
禅堂では2回目以上の人達も坐禅している。

坐禅て、凄い人気なんだなと思いました。


坐禅堂では話ができないので、別の和室ではじめての人向けの「坐禅の仕方」の話がありました。

坐禅の仕方の説明は、本山で修行中の雲水さんでした。
自分はどんな話を聴くのにも最前列で聞くのですが、その時は上座と下座を間違っていたので、一番下座から説明を聞くことになりました。

自分の座に対する挨拶の方法や脚の組み方、手の印の結び方、視線、呼吸などの説明が終わりました。

「何か質問はありますか?」

わたしは、坐禅中の心の用い方についての説明がほぼゼロだなと思ったので、
一番下座から質問しました。

「あのう、坐禅中は何をするのですか?」

そしたら、私より上座にいる全員がこちらを振り向きました。
本当に全員でした。
しかも驚いたような顔をしていました。


『こいつは馬鹿か、
坐禅中は坐禅をするに決まっているだろう』


というような顔ばかりでした。そういう雰囲気でした。


雲水さんが少し考えて答えました。
「その問題ですね、実は一番難しいんです。
わたしも2年になりますが、まだ分かっていません」

正直な雲水さんでした。


「坐禅中は、坐禅をするに決まっているよ」
こう考えている人がほとんどですね。 
身体を真っ直ぐにして、視線を動かさず、呼吸を整えて、そして心を鎮める、いつか無念無想になるだろう…
というのを坐禅のやり方だと思っているんですよね。
それ以上、だれかに坐禅の仕方を教わることもない。
[ ここまでが友人の話 ]

以上のような話をしてくれました。
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草野球20年の選手がある日突然プロ野球デビューしないわけ

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上の話し、面白いですね。
初心の時から坐禅の仕方を知らないで、本当のプロに習わないで、スタートするのはもったいないです。

そんなことをしていると坐禅を何十年やっても素人です。
きつい言い方ですね。

草野球を20年している人がある日突然プロ野球のグランドに立っていることは絶対ないように、本を読んだだけの自分のやり方で坐禅していても、20年経っても、本当の坐禅にはならない、なるはずがないということです。
草野球はどこまで行っても草野球なんです。


わたし、小学校の時に4年から6年の夏までは、放課後は毎日毎日、日が暮れるまで軟式野球をしていました。近所の熱心な中学生が教えてくれたのです。
でも、リトルリーグに入ってちゃんとした指導者についていたら、はるかに上手になっていたと思います。
自分が望むなら、中学や高校で野球部に入ってレギュラーになっていたかもしれません。
大人になって、野球大会をする時に、素早いタッチができて走者をアウトにできるのも小学生の時の努力の結果かもしれませんが、その程度です。(ちょっと自慢しちゃいました^^;)

いくら真面目に20年間坐禅に取り組んだとしても指導者が悪ければ、それは「草坐禅」なんです。


清貧な生活をして毎日朝早く起きて、僧堂に10年、20年と居る修行僧でも坐禅を知りません。ちゃんとした指導者が居ないからです。
その指導者は宗教組織で決められた資格は持っていますよ、しかし、釈尊から伝わる本当の坐禅、覚者たちの坐禅の仕方は知らないんです。
なのでそういう指導者に師事している後進の修行僧が坐禅のやり方を知っているわけがないのです。

専門僧堂に掛搭した僧侶は、
坐禅の格好だけはできます。
禅宗僧侶という坐禅の仕方のプロになるべき人が、しかるべき人に坐禅の仕方を尋ねることがないんですよ、ビックリです。

禅の道場に居ると、年に何回か、坐禅を集中的にやります。
その期間は風呂も入らないし、ひげも剃りません。時間がもったいないからです。

一週間の坐禅集中期間を接心(または攝心せっしん)と言いますが、その接心をなんなくやり過ごすことはできます。でもそれだけです。

専門僧堂に入門してから、出てくるまで、攝心を数回、人によっては数十回やっても少しも坐禅ができていない。
かえって、坐禅中に上手に居眠りをすることを覚えます。

外から見れば凄い修行に励んでいるように見えても、悲しいかなそれが禅宗僧侶の実態です。僧堂生活も慣れれば、なんでもないものなんです。



その人達の人格のことではありません。人柄が素晴らしい僧侶はたくさんいらっしゃいます。
でも、修行の根幹である坐禅に関しては、ちゃんと指導を受けなかったのです。


このブログでは、この21世紀でも、日本には数は少ないですが、本当の悟りを開いた人たちが居らっしゃるので、そのうちの一人に師事して、坐禅修行をすることをおすすめしています。

いくら正師に参禅しても独参しないと少しも進歩しない理由http://zenmasterjinen.blog.jp/archives/24101660.html
の中程に書いていますので、それもご覧下さい。


ちなみに上の友人は、このブログで紹介している老師の一人について坐禅をしています。



坐禅の組み方については、
悟りの体現者井上貫道老師のはこちらから

もうひとり、坐禅の方法を懇切丁寧に正確に伝えている人が居ます。
この方も悟りを体現している人です。僧侶ではありません。
悟りの体現者・松本自證老師の言葉
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天才道元禅師も人に聞きまくった

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日本に坐禅を伝えた道元禅師の法脈が今も残っているのは、道元禅師は当時人に質問をしまくったからです。
元々当時はお寺といえば、比叡山しかないのですが、比叡山の高僧たちに自分の質問をしました。でも答えを得られなかった。天台宗の一番トップでも答えられなかったのです。

「あなたは凄い、あなた程の熱心な僧侶は居ない」と褒められただけです。


次に、日本で禅宗が始まったと言われる京都鴨川近辺の建仁寺に言って、そこの老師に法を尋ねた。(栄西禅師には会えた説と会えなかった説があります)
でも満足はできなかった。


それで当時の中国に渡航されたのです。
建仁寺の老師をも巻き込んで一緒に行かれています。栄西禅師の法嗣の明全和尚です。
明全(みょうぜん)和尚は、修行半ばにして中国で遷化(せんげ)されています。
建仁寺ご開山(かいさん)の栄西禅師は、昔の教科書には「ようさい」とふりがなをつけていましたが、本当の読み方は「えいさい」です。臨済宗ではそう読まれています。


道元禅師が、素直に自分の疑問をぶつけたことが、現代にも悟りが伝わる所以(ゆえん)です。


21世紀の現代は、在家の方が仏道修行をするのに一番いい時代 お坊さんより有利です

熱心な方も、出家は不要です。
忙しい会社員のさなかに坐禅の時間を確保して坐禅を続けて開悟されたサンプルが何人もおられます。正しい老師に参禅したからです。
介護をしながら、開悟した女性もいますし、子育てをしながら決着がついた女性がいます。正しい老師に参禅して、ちゃんと坐禅ができるようになり、それを続行したからです。

なので、今の時代は在家の人にはビッグチャンスです。

もう道場を出た僧侶の方々も、忙しい法務檀務の間に、スキマ時間を取って正師(しょうし)に師事することができます。

お寺を空けれないなら、オンライン禅会があります。
オンライン独参されている指導者も居ます。

ありがたいことです。

本物の指導者とはー誰を選んでよいのかよく分からない方へ

正しい老師というのは、「老師」という称号がある人ではありません。
由緒ある有名寺院や僧堂の老師だから悟っているわけではありません。
本山で提唱しているから解脱しているわけではありません。
「禅師」だから悟っているわけではありません。ただ単に宗門の出世頭というだけです。立候補者の中から選挙で選ばれます。

印可証明を持っているから悟っているわけではありません。特に公案禅の印可証明は悟りの証明になっていません。15年位辛抱すれば誰でもその印可証明はもらえます。
ある宗門では、その印可証明をもらうと師家・師家分上となり、他の一般僧侶と比較して圧倒的な権威と地位が与えられ、一生不自由しない収入が保証されます。
本来、悟りの証明として得られた印可証明とは全く別物になっています。

一晩で印可証明される人もいれば、一年で印可される人もいれば、30年かかっても悟らなければ印可証明を得られないのが本来です。

以前は公案1700則を全部透過しても罷参底(はさんてい)というだけで見性していなければ印可証明は与えなかったのですが、いつの間にか、公案が全部終わったら悟ったことにするようにしてしまいました。
※罷 は 「は」「ひ」と読み、意味は、やめる
「罷参はさん」 は 参禅をやめる 故に「罷参底はさんてい」 は 参禅をやめた人、終わった人



外国から来ている独身僧だからと言って、信者さんが多いからといって、本がたくさん出版されているからと言って悟っているわけではありません。

そういうところは注意して下さい。

指導者本人に悟っているかどうかを質問する

自分が師事しようと思う人には、本当に悟っているか、解脱しているかどうか確かめる質問を何回もすべきです。
法のことを尋ねてその答えからその老師が本当に悟っているのか判断するのもいいですが、

本人に
「解脱されているのですか?」
「ハッキリされているのですか?」
「いつ悟られたのですか?」
「人は死んだらどうなりますか?」
などを直球でぶつけてみたら、答えで、答え方で素人でも察しがつくと思います。