盤珪永琢禅師は道者超元禅師の道場に掛搭して翌年大悟

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下は、盤珪禅師のために開かれた伊予(愛媛)の如法寺
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この投稿は、盤珪禅師と独接心 からの続きです。
赤字部分追加しました

盤珪禅師、独接心の後、梅の香りで気づいた体験を師に呈す

梅の香りの体験があったので、それを受業師の雲甫全祥(うんぽ・ぜんしょう、1568-1653)和尚に見解(けんげ)を呈したが、さらに別の明眼の師に参禅をすすめられる。

当時、妙心寺派の愚堂国師(白隠禅師の3代前の愚堂東寔ぐどうとうしょく1577-1661)の名声を聞いていたが、タイミングが合わずに参禅できなかった。

東陽英朝(聖澤派)⇒⇒東漸宗震⇒庸山景庸⇒愚堂東寔⇒至道無難⇒道鏡慧端(正受老人)⇒白隠慧鶴


盤珪禅師、中国僧・道者超元の会下(えか)となり、大悟

当時は、中国の明の時代であるが、法眼の備わったいわゆる黄檗僧(法系的には臨済宗の僧侶)たちが少なからず来日していた。

※この「黄檗」は臨済宗の宗祖とされる臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の師匠である黄檗希運(おうばくきうん)禅師(ぜんじ)は関係がありません


当時、臨済宗、曹洞宗共に彼らに良い影響を受けている。
彼らに参禅するものも多かった。
当ブログ管理人の感覚では、当時は、曹洞宗の僧侶の方が、積極的に、来日した中国僧に参禅しているような印象がある。
(ここで使用している「参禅」は臨済宗の使う「参禅=独参」という意味ではなくて曹洞宗的な「参禅=禅の修行をする」という意味です)


盤珪禅師もそのうちの一人である。
自分の体験を点検してくれる人を探している最中であった。
道者禅師の名声が播州まで聞こえていたのであろう。


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↑長崎の崇福寺 この僧堂で修行
1651年 秋、長崎崇福寺(そうふくじ)に至り、道者超元禅師の会下(えか)に入る 29歳
当時九州に来ていた明(みん)の僧、道者超元に参禅。
「汝は己事(こじ)に撞着(どうちゃく)すといえども、未だ宗門向上の事を明らめず」


まだ徹していないと見破られその道場にて修行に励む。

道者超元の道場は、お経の読み方始め威儀進退が中国風であったが、盤珪はそれに従わなかった(自分はそんなことのために修行をしているのではないと主張)

翌年、大衆と共に禅堂内で坐禅中に豁然(かつねん)と大悟し大法を成就した。
承応元年 1652年3月21日、30歳

※道者超元禅師は、亘信行弥(こうしんぎょうみ)の法嗣
隠元和尚と亘信和尚は兄弟弟子(仏法上の兄弟)
BがA和尚の弟子、CもA和尚の弟子の時、BとCとは兄弟弟子と言う。

盤珪禅師、大悟のあとしばらく一人で坐禅をする

この30歳の大悟のあと、
7月播磨に帰り、ついで大和の吉野山に入る 30歳
とあるように、いわゆる聖胎長養(しょうたいちょうよう)をされている。
そして
承応2年1653年秋、美濃玉龍庵に移る。(多分ここでも坐禅をされた)
冬、郷里・播磨に帰る 31歳
ゆえに、約1年程は悟ったあと一人で坐禅をされている。

1654年 備前岡山の三友寺(1632年までは播州にあったのが移転)に赴き、陽明学徒と対論し、承服させる。



上記の玉龍庵は、のちの玉龍寺(臨済宗妙心寺派)。
1692年冬、美濃玉龍寺結制 70歳 と年譜にあるので、お寺として再興されたのだと思われる。ちなみに玉龍寺結制では700人が安居した。

34歳の時、越前福井の大安寺では名僧の誉れ高き大愚宗築(1584-1669 たいぐそうちく、上記の愚堂国師の道友)禅師に相見(しょうけん:師家(しけ) に見(まみ)えること)して、問答商量している。
大愚禅師は当時71歳で大安寺の開山禅師。
その生涯に開創や再興した寺は大愚下三十六刹と呼ばれるほど多かった。


盤珪禅師の法系と印可証明

印可証明は、雲甫(うんぽ)和尚の兄弟子である牧翁祖牛(ぼくおうそぎゅう)和尚より印可を受ける1657年11月、35歳

牧翁祖牛(ぼくおうそぎゅう)和尚は播磨(1632以後は備前岡山)の三友寺住職・南景宗嶽和尚の法系にある人で、後年盤珪禅師は、法嗣である節外祖貞(せつがいそてい)和尚(江戸の光林寺2世)には、南景宗嶽(なんけいそうがく)和尚伝来の袈裟を付して伝法されている。
東陽英朝(聖澤派)⇒⇒東漸宗震⇒南景宗嶽⇒牧翁祖牛⇒盤珪永琢⇒節外祖貞他
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↑ 備前移転後の三友寺(臨済宗妙心寺派)


盤珪禅師は臨済宗の僧侶であるが、摂津(大阪府池田市)の陽松庵在の曹洞宗の明眼の師・天桂伝尊(てんけいでんそん)禅師(1648-1735)、いわゆる天桂老人(てんけいろうじん)とは親交があったようである。盤珪禅師が26歳年長である。


隠元隆琦和尚(いんげんりゅうきおしょう)が来た時、港で船から降りる姿を見て「彼は不生の人ではない」と盤珪禅師はその場から踵を返したということもあった。
※隠元隆琦は、日本の黄檗宗の開祖。ただし現在は、隠元和尚の法系は途絶えて、臨済宗の法系となっている。
インゲン豆を日本にもたらしたのは隠元和尚と言われる。


盤珪禅師の諡号は仏智弘済禅師・大法正眼国師。
法嗣、節外祖貞、逸山祖仁(いつざんそじん)など、弟子は男僧四百人あまり、尼僧二百七十人、居士大姉合計で5万人


道者超元(どうしゃ ちょうげん、1602年(万暦30年) - 1662年(康煕元年))は、明末清初に来日した中国僧。福建省興化府莆田県の生まれ。

当時は、これらいわゆる黄檗僧(隠元門下)がたくさん来日して、臨済宗、曹洞宗に大きな影響を与えている。

以来、黄檗僧が多く来日。

臨済宗も江戸時代まで曹洞宗と同じく面壁であった

のちの黄檗僧の坐禅が面壁ではなく対面座であったので、その影響で以来臨済宗はそれまでの面壁から対面座に変更している。

但しこの江戸時代盤珪禅師の頃、もう少しあとの白隠禅師の頃までは臨済宗も面壁だったことが分かっている。

盤珪禅師の大悟

ウィキペディアには、
正保4年 1647年 春、同庵にて大悟す 25歳
慶安元年 1648年 再行脚に出、美濃に至る。閑の吉田に庵し、ついで日立に移り、玉龍庵に居る 26歳
慶安3年 1650年 美濃より野中に帰り興福寺を再興す 28歳
慶安4年 1651年 秋、長崎崇福寺に至り、道者超元禅師の会下に入る 29歳
承応元年 1652年3月21日、開悟す。7月播磨に帰り、ついで大和の吉野山に入る 30歳とあり、2回悟られたような記述がありますが、独接心直後の気付きは大悟ではないと推測されます。


盤珪禅師の仏法の特徴

盤珪禅師は難しい漢語を使わず、日常用語で禅を説いた。
幼馴染の長者(=富豪)灘屋の佐々木道弥三兄弟に網干の龍門寺(りょうもんじ)、愛媛大洲(おおず)の加藤泰興侯に如法寺、江戸には光林寺、肥前国平戸(長崎県)の松浦鎮信侯の帰依で普門寺などの開山となった。1654年(承応3年)備前国三友寺に住して岡山藩士を教化、

1669年 春、愛媛大洲(おおず)如法寺(にょほうじ)創建さる。受業師・雲甫和尚の木像を作る 47歳
1670年 6月、如法寺の禅堂落成す。続いて裏山に奥旨軒(おうしけん)建つ 48歳
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如法寺禅堂


網干の龍門寺(りょうもんじ)を中心として各地を巡歴し、方言交じりの親しみやすい日常語で幅広く一般庶民に法を説いた。不生禅(ふしょうぜん)と呼ばれる宗旨を唱え、難解な禅を平易に説いたことは高く評価されている。
1693年(元禄6年)71歳で遷化(せんげ)
没後の1740年(元文5年)大法正眼国師(だいほうしょうげんこくし)の号を賜った。後に門人たちにより「盤珪禅師語録」がまとめられ後世に伝えられた。


師弟の礼をとった弟子の数は僧俗合わせて5万人と言われている。
自分のような苦行をしなくても不生の仏心は得られるとやさしい日常語で法を説いた。

57歳から遷化(せんげ)まで毎年結制をしかれ、一度寺院で結制をしくと500人、700人、1300人といった僧俗が集まって修行に励んだという。


如法寺の禅堂も収容力のある立派な禅堂であった。
また、本気の修行者を愛媛県大洲(おおず)の如法寺(にょほうじ)の山上にある奥旨軒(おうしけん)というところに引き籠もらせて指導をしたいたことも分かっている。


従って、盤珪禅師の説くところは、人はみな不生の仏心を備えているので悟らなくてもよいというようないわゆる無事禅ではない。
不生の仏心をせっかく生まれながらに持っているのに、自分がという我慢(仏教本来の意味の我慢で)の心、畜生の心をふと起こすからいけないのであると明確に示されている。


盤珪禅師の言葉

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「この会座にては、それがしが申す事をこそ、聞かせられふとおぼしめす念迄でござるに、

此寺の外にて犬の声や物売りの声のするを、此説法の内に聞かれられふとはなけれども、

面々耳に聞こえまする。是不生心と申すものでござる。


その不生でととのひまする不生の証拠は、

皆の衆がこちらむひて、身どもがかふ云う事を聴いてござるうちに、

後にて烏の声雀の声、それぞれの声を聞こうと、思う念を生ぜずに居るに、

烏の声雀の声が通じわかれて、間違わずに聞こゆるは、

不生で聞くといふものでござるわひの。」

 (盤珪禅師御示聞書)

現代文訳:「この集まりでは、わたしが言う事を聞こうと思われているのに、この寺の外で犬の声や物売りの声がするのを、この説法の最中に聞こうとは思われていないのに、耳に聞こえてきます、これが不生の仏心と申すものです。
その不生で整う不生の証拠は、皆の衆がこちらを向いて、わたしがこのように言うことを聞いていらっしゃるのに、後ろで、鳥の声、雀の声、それぞれの声を聞こうと思う念などを起こそうとしないのに、鳥の声と雀の声がちゃんと別々に間違えずに聞こえるのは、不生で聞くということでございます。」


盤珪禅師の修行時代の再考

盤珪禅師の修行時代を見てみますと、明眼の師に会わなかったために、大変苦労をされています。
正師(しょうし)を見つけられなかったので、我流に陥り、無駄に苦行をされたとのことです。
お釈迦様の悟られるまでの経緯と大変似ています。


盤珪禅師自身、
「われ発心の初め善師友を得ざる故、種々の苦行をいたし、身の油をしぼり、あるいは人縁を断絶して閉居し、あるいは紙帳を作り、その内に打坐し、あるいは窓障子を立てて、暗室に打坐し脇席につけず(横になって寝たりせず)、結跏趺坐にて両股(もも)ただれうみ、その跡(あと)後まであり。また某国某所に善知識ありと聞いては、じきに往きて相見(しょうけん)す。数年の間かくのごとくす。およそ日本のうち、足跡の至らざる所は少なし。これみな明師に逢わざる故なり。」
と語られているように、優れた師匠足りうる人が居ると聞けば訪ねて行き、日本中を探したと言われています。

ところが、たとえば、すでに述べましたが、愚堂国師のような善知識・明眼の宗匠にはご縁がなかったのです。

また、目ざとい方は、盤珪禅師の師匠(得度の師:受業師とも言います)である雲甫全祥和尚は、南景宗嶽和尚の法嗣で印可底の人なのに、なぜ盤珪禅師を指導しなかったのかと思われるかもしれません。
それは、実際に、僧侶となった人はわかるのですが、
1. 受業師は、弟子の親的存在、保護者であり、情報提供者であり、人情もからむので、弟子を厳しく鍛えることはできない
2. 受業師の寺院は、一般の寺院であるので、弟子の禅修行をさせるための体制が整っていない
ので、
以上の理由から、
たとえ受業師が明眼の人であっても、自分の寺で直弟子の禅修行を指導することはなかなか難しいのです。

でも、もし、雲甫全祥和尚のもとにたくさんの弟子や会下の僧侶が居て、和尚の寺院自体に僧堂のような機能がそろっていてみんな真剣に修行する心構えのある人が集まっているのなら、盤珪禅師もそこで、修行ができたと思われます。
そうでない限り、受業寺では修行が難しいのです。


3. 盤珪禅師があまりにも悟りを求める心が強すぎたので、師匠の言葉に耳を貸さなかった。もしくは、雲甫全祥和尚の境涯を最初は知り得なかった。

ということも考えられます。


しかしながら、盤珪禅師も、最後には、タイミング良く、明国から来訪した道者超元禅師の道場である崇福寺に掛搭することができたのです。


早くに明眼の師、正師(しょうし)に会えることができるのは幸いなのです。

盤珪禅師は、指導者になってからは、修行者には、自分のような苦行をする必要はないとハッキリ教えておられます。
雲甫全祥和尚については、上記のように、盤珪禅師は、如法寺に雲甫和尚の木造を作っておられます。


盤珪禅師の不生の仏心とは

昭和の半ばに活躍された悟りの体現者・井上義衍(ぎえん)老師の教えが、盤珪禅師の再来のようであると、東京大学卒の元数学教師・川上雪担老師が言われています。
たしかに、井上義衍老師は盤珪禅師の伝えられた不生の仏心を別のことばで表現されていますね。
不生の仏心の教えが素晴らしいと思っても、もう盤珪禅師はいらっしゃいません。
質問すること、独参することができません。

不生の仏心を体現するにはどうしたら良いのですか?
と質問したくてもできません。


しかし、幸いなことに、
昭和の半ばに活躍された井上義衍老師の下から、悟りを開いた人が続出し、この令和の現代にも、本当の仏道を伝える人が何人かいらっしゃるということです。

盤珪禅師は、道場では眠る人を叩く警策(きょうさく・臨済ではけいさく)を使われませんでしたが、義衍老師門下ではめったに警策を使わないのも家風が似ています。

その井上義衍老師について概略を知りたい方は、
 お釈迦様と同じ悟りを開いたとされる井上義衍老師のことば

 井上義衍老師に印可された井上貫道老師のことば:悟ればもう元に戻ることはない

私たちは見たこともなかった、

行ったこともなかった悟りの世界に初めて足を踏み込んで、

諸仏方の過ごされた境涯というものをこの身体で楽しむことが出来るのです。ー井上貫道(1944-)



上のことばは、https://zazen.blog.jp/archives/1032380745.html に詳述されています。



勉強している医師の動画です。
「(製薬メーカーなどから献金を大量にもらっている)マスコミは、『医療関係者が早く打ちたいと言っている』と嘘をついている」
とのことです。

気をつけてください。TVや新聞の報道は偏向です。
オウム真◯教の麻◯彰◯が◯刑になった時、マスコミが大々的に取り上げましたが、その時、日本人の命運を左右する悪法が成立しました。
新聞の片隅に、「水道法改正法案成立(水道の民営化を許可するなど)」と書かれているだけでした。本来こちらがTVや新聞で話題にしなければいけないことでしたが、麻◯彰◯◯刑の記事で人心の関心をそらされてしまいました。
 https://www.mhlw.go.jp/content/000463055.pdf

水道を民営化して苦しんだ国があって、もう諸外国は、決して水道の運営を民間業者には渡さないとされているにもかかわらず、日本はこれからそれをやろうというのです。

先月、ついに仙台市でそれが始まりました。浜松市は下水道だけを民営化していますが、上水道まで民営化してしまえば、大変なことになります。

大事件が報道される時、その裏でもっと大事な事件があることがあるのです。

わたしは、「今なぜこの人の死刑なんだ?」と思いましたが、水道法改悪の時の世間の目を逸らすために、確保されていたんだとすれば、理由がわかりました。